The Kaiserreich Wiki
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英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣言後、治安維持のために軍は各地へ配置されていた。炭鉱に配置されていた師団は、炭鉱夫と地域住民によって炭坑内の機械や採掘所に近づくことを拒否され、しばらく膠着状態に陥った。

その後に起きた事件について、当時の政府の公表では軍は自衛のために発砲し、故意に危害を加える意図があった訳ではないと釈明している。一方で当時の証人からの説明では、軍が抗議に対して何の前触れなく発砲したと証言されており、未だに議論がなされている。多くの歴史家は、この一度の発砲によって事態は混沌へと変化したと指摘している。

治安維持を行っていたのは、実戦を経験していなかったり訓練を十分に受けていない予備役部隊が大半であったため、配備された師団は実際にゼネストと戦闘状態に移る準備ができていなかった。しかしこの事件を経て、興奮したゼネスト参加者は軍に真っ向から殴り掛かり、相互間で暴力の応酬が行われた。

この報せはすぐさま国中に広まり、労働者層のための機関紙デイリー・ヘラルドが、軍が国民に対して発砲したことを大体的に掲載した。この記事は火事のように国民に広がり、緊張状態にあったゼネストの現場で散発的な暴動が生じ、さらに国中に暴力沙汰が広がっていった。

1925年3月15日、スコットランドの革命的社会主義者、ジョン・マクレーンがグラスゴーにあるジョージ広場で大英帝国の未来を変える演説を行った。初めの内、彼の話す内容は政府の行動を非難するだけの物であったが、演説が終わりに近づくにつれて激しく、扇情的な言葉が用いだされ始めた。マクレーンは1919年のフランス革命についてのこと、これに倣って英国の労働者が立ち上がるべきであること、革命成就のためには軍を担う兵士たちを味方に付けるべきであること、カーゾンの政策に代表されるような、古びた反動主義的暴政を相手に戦うべきであることを話した。

TUCがこの演説をデイリー・ヘラルドに再掲載し続ける一方、人づてにこのメッセージが演説の傍聴者を介して伝えられ、マクレーンに続くアジテーターが次々に登場した。政府は、タレニー炭鉱での事件に続く騒動鎮圧に対してのみ対処し、実際に事態へ対応する軍への配慮を欠いていた。そのため予備役部隊の多くが命令なしに解散を行ってゼネスト側に合流し始めた。ゼネストに転じた兵士たちは工場や行政施設を襲い、革命の名の下に占拠した。労働党首脳部はこの事態に非干渉を貫こうとしたにも関わらず、1925年3月18日、ジェームズ・マクストン、ジョン・ホイートリー、デイビッド・カークウッドらによって率いられた庶民院の労働党議員の一部が、国中で起こっている反乱を支持し、革命の遂行と実力での政府権力の転覆をゼネスト側に要求した。これを受けて議員たちは即座に彼らを議場から退出させた。

著名な政治家一家であるチェンバレン家の本拠でもあったバーミンガム市は、全く持って保守的な都市だと考えられていたにも関わらず、大勢の想定に反して市内は革命勢力の重要な拠点となった。その雄弁さから人々を魅了していた若き労働党議員、オズワルド・モーズレー卿は、労働運動への参加と社会主義への転向を行う前に保守党にいた経歴があるにも関わらず、マクレーンのスピーチを受けてバーミンガムでの革命運動に身を挺じ、そこで示した活躍は市内でも特に称賛されるべきものであり、彼の下に多くの兵士や労働者が集った。兵士たちの反乱が広がるにつれ、すぐにブリテン島内の大都市は革命勢力の手に渡り、政府はロンドン市をのぞいてその統治が行き渡らなくなっていた。

首相にしてケドルストン侯であるジョージ・カーゾンは、ゼネストが行われた期間を通して体調不良であったものの公務をそつなくこなしていた。結果として、1925年3月20日の首相の死は国民にとって予想だにしないものとなった。多くの人々が、カーゾン卿はこの危機的状況に対処するには歳をとりすぎており、心労によって容体が悪化したと考えた。先の有力な財務大臣、スタンリー・ボールドウィンはカーゾン卿の死後にすぐ事態に介入したが、ゆっくりと破滅に迎えつつあったこの混乱状態で公式に首相就任宣言を行う暇はなかった。

治安回復を確約していたにも関わらず状況は日に日に悪化し、1925年3月22日、ボールドウィンは政府をカナダに移転させ、閣僚たちをブリテン島から亡命させることを決意した。これは事実上の敗北宣言であり、続いてロイヤル・ネイビーの中から最も信頼できる艦隊でもって、多数の人々と物資を詰め込んで大西洋へ出向させた。王室一家はこれより七日早く、一時的な亡命を遊覧用の装いをした上で行っていたが、一時的という手はずはすぐに永続的なものとなった。

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