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イギリス連合
Union of Britain.png
イギリス連合旗
正式名称 イギリス連合
一般名 イギリス
標語 今がその日、今がその時

(Now's the Day and Now's the Hour )

国歌 「赤旗

(The Red Flag )」

公用語 英語
首都 ロンドン
政治体制 社会主義連邦制
国家元首 フィリップ・スノーデン
首相 アーサー・ホーナー
通貨 スターリング・ポンド
建国 1925年
面積(本土) 209,331 km²
人口(本土のみ) 約4,400万人

イギリス連合(英語:Union of Britain)は、西ヨーロッパにあるサンディカリズム体制の国である。ヨーロッパ本土の北西に位置し、グレートブリテン島とその周辺の諸島から成り立っている。イギリス連合は大西洋上にある島国で、東は北海、南はイギリス海峡、南西にはケルト海があり、陸で国境を接している国は存在しない。アイルランド海の西にアイルランドが、南にはイギリス海峡を隔ててフランス・コミューンがある。


歴史[]

ゼネラル・ストライキ[]

イギリス連合の成立は、1925年2月28日の炭鉱夫たちによるストライキを組織、支援した全英労働組合会議(TUC)における全会一致の議決に基づいている。1925年、ゼネストに至った大まかな発端は、初代ケドルストン侯爵、ジョージ・カーゾンが首相として率いた、保守党と国民党との連立政権が導入した関税政策にある。関税を導入した初めの内、ドイツと形成されて間もない中央ヨーロッパに対してイギリスの産業は優位性を維持し、わずかな間ながら経済回復の兆しが見えていたが、ドイツ帝国はすぐさまイギリスの関税を出し抜く方法を見つけた。

ドイツはイギリスからの輸入品に関税を課し、他国にもイギリスに対して同様の処置を行うよう圧力をかけた。イギリスの国外輸出は縮小し、一方で英国内における消費財価格は高騰したままだった。ドイツとアメリカからのより安価な石炭が市場で台頭し、世界市場における競争に敗れたために、英国の石炭産業と産業従事者は特に困難な状況に瀕した。

TUCは全英炭鉱連盟の総書記、アーサー・クックの説得によって奮起し、炭鉱夫たちによる賃上げ闘争に対して連帯を打診した。彼はかつてTUCから狂った共産主義者として非難されてきた人物だったが、炭鉱夫たちの悲惨な現状を見て、TUC内では彼の主張に部分的に賛同する者が現れていた。1925年3月6日、政府を含んだ雇用者側との全ての交渉が決裂したことにより、無期限のゼネストが発動された。保守党、国民党、および自由党はすぐさまゼネストを反生産的であるとして非難し、首謀者たちは単に国難に乗じて付け込んでいるだけだと主張した。内相であったウィンストン・チャーチルは、スト期間中の治安維持を口実にすぐさま陸軍の部分動員を決断した。

ラムゼー・マクドナルド率いる労働党は、いまだにこの事態に対してなんら方針が定まっておらず、中立の意を込めて沈黙を守り続けた。旧独立労働党党員を含む党内の左派はゼネスト支持に傾き、対するマクドナルドと党の代表たちは慎重を期して、労働党の支持者層とゼネスト参加者が結びつくことを非難する一方、ゼネストを是認することが革命的社会主義の持つ暴力性を肯定することになるのを恐れた。最終的にはゼネスト側と政府間で妥協が成されることを期待して、公式に中立の立場を示した。

軍による発砲[]

1925年、ゼネスト真っ最中の抗議者たち

英国革命と暴動が勃発する決定的瞬間は、今なお秘密に覆われ不明瞭なままである。確実なのは、南ウェールズのタレニー炭鉱での一連の騒動によって、その後のゼネストが急速に広まっていったということだ。ゼネスト宣言後、治安維持のために軍は各地へ配置されていた。炭鉱に配置されていた師団は、炭鉱夫と地域住民によって炭坑内の機械や採掘所に近づくことを拒否され、しばらく膠着状態に陥った。

その後に起きた事件について、当時の政府の公表では軍は自衛のために発砲し、故意に危害を加える意図があった訳ではないと釈明している。一方で当時の証人からの説明では、軍が抗議に対して何の前触れなく発砲したと証言されており、未だに議論がなされている。多くの歴史家は、この一度の発砲によって事態は混沌へと変化したと指摘している。

治安維持を行っていたのは、実戦を経験していなかったり訓練を十分に受けていない予備役部隊が大半であったため、配備された師団は実際にゼネストと戦闘状態に移る準備ができていなかった。しかしこの事件を経て、興奮したゼネスト参加者は軍に真っ向から殴り掛かり、相互間で暴力の応酬が行われた。

この報せはすぐさま国中に広まり、労働者層のための機関紙デイリー・ヘラルドが、軍が国民に対して発砲したことを大体的に掲載した。この記事は火事のように国民に広がり、緊張状態にあったゼネストの現場で散発的な暴動が生じ、さらに国中に暴力沙汰が広がっていった。

革命の火の手の広がり[]

1925年、革命を防ぐために備えているイギリスの戦闘車と兵士たち

1925年3月15日、スコットランドの革命的社会主義者、ジョン・マクレーンがグラスゴーにあるジョージ広場で大英帝国の未来を変える演説を行った。初めの内、彼の話す内容は政府の行動を非難するだけの物であったが、演説が終わりに近づくにつれて激しく、扇情的な言葉が用いだされ始めた。マクレーンは1919年のフランス革命についてのこと、これに倣って英国の労働者が立ち上がるべきであること、革命成就のためには軍を担う兵士たちを味方に付けるべきであること、カーゾンの政策に代表されるような、古びた反動主義的暴政を相手に戦うべきであることを話した。

TUCがこの演説をデイリー・ヘラルドに再掲載し続ける一方、人づてにこのメッセージが演説の傍聴者を介して伝えられ、マクレーンに続くアジテーターが次々に登場した。政府は、タレニー炭鉱での事件に続く騒動鎮圧に対してのみ対処し、実際に事態へ対応する軍への配慮を欠いていた。そのため予備役部隊の多くが命令なしに解散を行ってゼネスト側に合流し始めた。ゼネストに転じた兵士たちは工場や行政施設を襲い、革命の名の下に占拠した。労働党首脳部はこの事態に非干渉を貫こうとしたにも関わらず、1925年3月18日、ジェームズ・マクストン、ジョン・ホイートリー、デイビッド・カークウッドらによって率いられた庶民院の労働党議員の一部が、国中で起こっている反乱を支持し、革命の遂行と実力での政府権力の転覆をゼネスト側に要求した。これを受けて議員たちは即座に彼らを議場から退出させた。

著名な政治家一家であるチェンバレン家の本拠でもあったバーミンガム市は、全く持って保守的な都市だと考えられていたにも関わらず、大勢の想定に反して市内は革命勢力の重要な拠点となった。その雄弁さから人々を魅了していた若き労働党議員、オズワルド・モズレー卿は、労働運動への参加と社会主義への転向を行う前に保守党にいた経歴があるにも関わらず、マクレーンのスピーチを受けてバーミンガムでの革命運動に身を挺じ、そこで示した活躍は市内でも特に称賛されるべきものであり、彼の下に多くの兵士や労働者が集った。兵士たちの反乱が広がるにつれ、すぐにブリテン島内の大都市は革命勢力の手に渡り、政府はロンドン市をのぞいてその統治が行き渡らなくなっていた。

首相にしてケドルストン侯であるジョージ・カーゾンは、ゼネストが行われた期間を通して体調不良であったものの公務をそつなくこなしていた。結果として、1925年3月20日の首相の死は国民にとって予想だにしないものとなった。多くの人々が、カーゾン卿はこの危機的状況に対処するには歳をとりすぎており、心労によって容体が悪化したと考えた。先の有力な財務大臣、スタンリー・ボールドウィンはカーゾン卿の死後にすぐ事態に介入したが、ゆっくりと破滅に迎えつつあったこの混乱状態で公式に首相就任宣言を行う暇はなかった。

治安回復を確約していたにも関わらず状況は日に日に悪化し、1925年3月22日、ボールドウィンは政府をカナダに移転させ、閣僚たちをブリテン島から亡命させることを決意した。これは事実上の敗北宣言であり、続いてロイヤル・ネイビーの中から最も信頼できる艦隊でもって、多数の人々と物資を詰め込んで大西洋へ出向させた。王室一家はこれより七日早く、一時的な亡命を遊覧用の装いをした上で行っていたが、一時的という手はずはすぐに永続的なものとなった。

革命議会の開催[]

1925年6月3日、イギリス連合の成立が正式に宣言された。議員の多くが混乱状況下において身を隠していたため、少数ながら議会に居残っていた急進的な労働党議員たちが、両院と連合王国そのものを廃止するという前例のない法令を可決させ、これまでゼネストと連帯を行ってきたTUC首脳部を議場に招き、組合会議を中心に据えた新たな政権を樹立させた。TUCの組合員に英国中のあらゆる層の人々が新たに加わり、TUC組合員によって新国家のための代表政府が成立した。1925日6月4日、イギリス連合における初の議会が開かれ、会議は数日間にわたって続いた。連合はごく短期間の内に成立し、未だに混乱が英国中で続いていたため、ゼネストの直接指導を担ったTUC組合員や革命組織のメンバーによる出席者は限定的なものだった。わずかな期間の内に票決が取られた後、全国労働組合会議(NTUC)の設立が宣言された。

当初から予想されていたとおり、大戦中から知られていた彼の不断の活動と革命への多大な寄与もあって、ジョン・マクレーンがTUCの議長に圧倒的なまでの得票差でもって選出された。総書記には、古参の組合員であり熱心な共産主義者でもあるトム・マン(スペイン内戦時には彼の名が冠された義勇軍部隊が存在した)が選ばれた。彼は卓越したオルガナイザーであり、長年に渡ってTUCの一員として活動していたことが買われての結果であった。これまでTUC内での要職を担い、国際的な組合組織にも関わっていたウォルター・シトリーンと、ゼネストの組織者とみなされていたアーサー・クックのふたりは、それぞれ外務人民委員と財務人民委員に任命された。

より穏健な層からは、シドニー・ウェッブ(フェビアン協会の設立者であり、労働党の綱領作成にも関わった)が内務人民委員の職に選ばれる一方で、ゼネスト時にはスコットランドの産業地帯で活躍し、マクレーンとも近しかったマニー・シンウェルが保安局局長に就任した。軍が消滅しているにも関わらず、参謀幕僚の多くは王室に忠誠を尽くしていたため、若い士官であるトム・ウィントリンガムが参謀総長、共和国軍総司令官に任じられた。共和国空海軍総司令官の地位は一時的に空席であった。

新政権からの除外者[]

グレート・ブリテン共産党(CPGB)の代表と同じく、「バーミンガムの英雄」と呼ばれていたオズワルド・モズレーの議会への反応は注目すべきものである。CPGBの主導部は、フェビアン協会がパリを拠点にする社会主義インターナショナルに加盟してないことを指摘し、シドニー・ウェッブと彼のフェビアン協会をプチブル的であるとみなし、彼と彼のシンパが組合会議に参加することを拒否し、彼らと同席することを嫌ってTUCに参加することを一時的に拒絶していた。

バーミンガムでのモズレーの活躍が当時により注目されていれば、たった一週間後に彼が行ったスピーチはTUCからの徹底的な猛批難が行われたであろう。モズレーはTUCに向けて、現状の新国家は致命的欠陥を抱えたままであり、革命後における分権化や急進的すぎない改革を巡る議論は真の社会主義国家において全く不必要な物である、そのような政策による産物は革命以前の怠慢なリベラリズムや議会主義を彷彿させるとして非難した。

モズレーは、TUCの下に必要ならいかなる政策をも採れる集権的体制が築かれるべきとの自らの信念を述べ、自身が内務人民委員に立候補することで自らの主張を通そうとしたが、TUCでは代わりにシドニー・ウェッブが選出され、彼はこの野心的試みを諦めざるを得なかった。英国革命を通して、モズレーは政治の中枢に関わることなく、政権の周縁部に追いやられたままであった。

前進[]

1929年4月25日、TUCに向けて演説を行っていた際にジョン・マクレーンはその場で倒れた。大戦時に彼は徴兵制に反対したため、当時の英国政府によって投獄され、過酷で孤独な投獄生活を数年間に渡って送っており、この時による衰弱が彼の死期を早めたと考えられた。マクレーンはかつて、あらゆる社会的階層に向けた綱領を作成しており、1926年時と関わらず議会の構成員は大きく交代しなかった。しかしながら1926年と異なり、様々な政治的信条を持った党派が生まれ、新たな政情が生じた。

TUC議長には多数派の信任を得て新しく、温和で気取らない性格のフィリップ・スノーデンが就任した。彼は青年時代に社会主義に目覚め、かつては独立労働党の党首も務めていた。スノーデンの当選は、TUC内での党派抗争を避けようとする彼の党派を超えた協調的姿勢が評価されてのことと考えられた。続くトムマンの辞任により、TUC内での現状維持に努める連邦派で台頭しつつあった若い組合員、アーサー・ホーナーが総書記に選出された。ウォルター・シトリーンに対して際どい勝利を得て、外務人民委員にはクリフォード・アレンが就任した。アレンはTUC内における会合派の唯一の代表であった。会合派は連邦派と異なり、国際的労働者組織のより一層の団結と国内における社会保障を重視していたが、この集団はTUC内でも有力だったフェミニストたちが集っていた。

新党派に流れることなく、多数派の指示を得て、アーサー・クックとシドニー・ウェッブはそれぞれが務めていた人民委員に再選された。最大の番狂わせは、マクレーンと近しかったマニー・シンウェルが、かつて独立労働党党員であり、今はスノーデンを支持しているフェナー・ブロックウェイに敗れたことだった。現役士官であるアラン・ブルックが、軍事的インテリゲンチャの欠如を埋める形で共和国軍総司令官に任じられる一方、士官としての指揮経験のある組合員、アルバート・アレクサンダーとウィリアム・ウェッジウッドが海軍と空軍の総司令官に選ばれた。

1931年11月2日、アーサー・クックはガンとの闘病の末、47歳で死去した。彼の早すぎる死により財務人民委員の地位が空き、同時期にシドニー・ウェッブもまた高齢を理由に内務人民委員を辞職した。

二つの人民委員のポストに各派閥からの候補者が募ったが、オズワルド・モズレーが財務人民委員に選ばれたという事実は大いに驚くべきものであった。イギリス連合が成立してからの6年間を議会と無縁な生活を送っていたにも関わらず、英国社会に急進的な変化や革命時の興奮を求める若者たちを魅了し続けた彼は、英国に覚醒をもたらすというヴィジョンを持って行動に出たのだった。

1931年12月12日、モズレーは最終投票において穏健的なアーサー・グリーンウッドに僅差で勝利し、財務人民委員に当選した。一方で、内務人民委員には多数派である連邦派の支持を受けてハーバート・モリソンが選出された。

政治[]

来るべき次のTUC会議では、権力を求めて各派閥が政争を繰り広げるであろうことが予想されている。現TUC議長であるフィリップ・スノーデンは高齢を理由に辞職の意志を表明しており、これを受けて各派閥から議長職への立候補者が名を挙げている。オズワルド・モズレーを中心に集まる最大綱領派、アーサー・ホーナー率いる連邦派、ニコラス・イ・グライスの自治主義派などは皆、英国の未来について異なるヴィジョンを有しており、いずれも現在各派閥間の妥協は見いだすことはできていない。自治主義派がイングランド共和国に対してスコットランドやウェールズなどの各共和国の対等性を強く主張する一方、最大綱領派はイングランド共和国による他の共和国への主導権を確立し、分散されていた国家事業の規模を統合することでより大きな物にすることを構想していた。両派は互いに「民族主義的逸脱者」、「大ブリテンへの盲目的愛国主義者」と呼んで非難し合っている。連邦派はイギリス連合発足時の体制であり続けることを主張し、他と比べて最も現状維持に近い要求を行っている。

軍事[]

イギリス連合における戦略教義では、国家の生命線である通商護衛を果たすため、近海における優勢確保こそが第一の目標とされている。また空海軍がより優先的に重視されているのに対し、陸軍は副次的立ち位置に置かれている。

陸軍[]

イギリス陸軍では常備軍の他に、郷土防衛部隊と非常勤の志願兵部隊である地域民兵が補助的役割を担う。常備軍の規模は小さなものながら、これら予備戦力は短期間の内に師団編成を終え、必要な戦力を投入可能としている。

海軍[]

王党派が亡命した際に多くの艦船がカナダに渡ったものの、共和国海軍は世界でも有数の海軍戦力を保っており、欧州においてドイツ帝国海軍に唯一対抗できる海軍である。また航空母艦を運用可能としている、世界でもごく僅かな軍隊の一つである。イギリス連合における海軍は、政府とは独立した経営部門と収入源を備え、海上防衛や税関、商船を管轄するのみならず、国内の造船業や貿易・外交政策にも影響力を持っている。

空軍[]

共和国空軍(RAF)は本土上空を防衛するすることが任務であり、敵国上空に進出することには重きを置いていない。しかしながら、RAFはボマー・コマンドの指揮下に傑出した戦略爆撃部隊を有している。

編集中[]

このページは編集中の記事です。よろしければ追記、編集よろしくお願いします!!!!
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